2011年特集:東日本大震災と西東京市

画像をクリックすると紙面(PDF)がみれます。

 

・東日本大震災その時西東京市では(1面)

 西東京市は震度5弱 

  3月11日午後2時46分ごろ、三陸沖を震源とする「東北地方太平洋沖地震」があり、宮城県で震度7、西東京市では震度5弱を観測しました。地震の規模を示すマグニチュード(M)は9・0で、チリ地震を上回る世界最大級の地震でした。大地震と大津波、東京電力福島第一原子力発電所の事故による災害は「東日本大震災」と名付けられ、西東京市民の生活にも大きな影響を及ぼしました。

 

 田無駅歩行者デッキに被害

  市災害対策本部によると、市内では死傷者はいません。物的被害では、田無駅のペデストリアンデッキの階段がデッキとずれ段差ができてしまいました。市が管理する施設のため、約1億2000万円をかけて5月中に修復する予定です。この復旧工事費は平成22年度一般会計補正予算案に盛り込まれ、定例市議会で可決されました。市の貯金にあたる財政調整基金を取り崩して使います。 公式の被害扱いになりませんが、田無神社の参道にある鳥居4カ所のうち2カ所が壊れ撤去されました。このほか田無駅の天井の一部がはがれ落ちたり、住宅などの建物で屋根瓦の一部損壊や壁の一部にひびが入ったりする被害が見られました。

 

帰宅困難者、公民館に182人

交通機関がマヒして自宅に帰れない人のため、市災害対策本部は地震当日の夜から翌朝にかけ、駅に近い四つの公民館を避難所としました。 都内全体では9万人余りが自治体などの提供した施設を利用しましたが、市内は計182人でした。 最も多くの帰宅困難者を受け入れた保谷駅前公民館。5階の4部屋で足りず、廊下も開放し一時は200人ほどに膨れ上がったようです。職員たちは毛布を配り、アルファー米の炊き出しやビスケットの配布を行いました。運転が再開された翌日午前1時半ごろには帰宅が始まり、それでも、およそ30人が宿泊したそうです。柳沢公民館には「家具が倒れて寝られない」と近くの住民も駆け込みました。 一方、西東京市の自宅へは「新宿から田無まで4時間」「浅草から田無まで6時間余り」という徒歩組や、電車が動くのを待っても「西武新宿駅で約200㍍、1時間並んだ」という人も。 都心で映画を見ているとき地震に遭い、入場料を返してもらったまではよかったが、当てにしていた施設に空き部屋がなく、ロビーで夜を過ごして翌朝に帰宅した人もいました。 田無駅の近くに職場のある60代の男性は八王子市内の自宅まで、普段なら1時間余りのところを一部バスを使っても5時間半がかり。事件事故に巻き込まれないよう「メーンストリートを選んで歩いた」と言います。 別の八王子市民は新宿駅から武蔵境駅行きのバスに乗るまで3時間待ち。さらに終点に着くまで3時間。その先のバスがないので思案の末、武蔵野赤十字病院に行き、待合室で夜を明かしました。看護師が毛布を持ってきてくれたので、2時間ほど熟睡できたと言います。 

                        (五十嵐、菅原)

 

・募金、物資・・・救援の手(2面)

・計画停電で市民活動にも影(3面)

・放射能汚染で浄水所を再認識、被災者に思いをはせ(4面)